ページタイトル:浜ノ宮の大樟 当サイトのシンボル

画像:浜ノ宮の大樟(幹と並ぶ)_1


画像:浜ノ宮の大樟(幹と並ぶ)_2


画像:熊野三所大神社(浜ノ宮)
 熊野三所大神社
名称 浜ノ宮の大樟 (はまのみやのおおくす)
名称の典拠 現地の樹名板(注1)
樹種 クスノキ
樹高 25m/22m(注2)
目通り幹囲 7.4m/6.9m(注2)
推定樹齢 800年(注3)
所在地の地名 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町浜ノ宮
 〃 3次メッシュコード 5035−37−75
 〃 緯度・経度 北緯33度38分40.6秒
           東経135度56分06.5秒
天然記念物指定 なし
撮影年月日 2009年6月13日

注1)設置者・設置年月とも不詳
注2)環境庁「日本の巨樹・巨木林 近畿版」による
注3)上記樹名板による





 熊野三所大神社のクスノキ。2本は根元でつながっている。「夫婦楠」と呼んでもよさそうな2本だ。
 ここは、かつての「浜宮王子」跡。
 案内板によれば、平安時代後期の右大臣藤原宗忠(ふじわらのむねただ。1062〜1141)が、その日記「中右記」に、白砂の補陀落浜から浜宮王子を参詣した際、南の海に向かう地形がたいへんすばらしいと記しているという。現在は浜辺から300mほど離れており、その間に多くの家々が建ち並んでいるが、当時は浜がよく見えたのだろう。
 補陀落(ふだらく)とは、観音様の浄土のことである。
 浄土は一つではなく、たとえば阿弥陀様の極楽浄土は西にあり、お薬師様の浄瑠璃浄土(=浄瑠璃世界)は東にある。観音様の補陀落浄土(=補陀落山)は南方海上にあるとされていた。
 この世の死は免れ得ないとしても、死後は浄土に生まれたい。そんな思いに駆られた高僧が、観音浄土への渡海を志した。記録に残っているだけでも25人の名が知られている。
 案内板にあるように、「平家物語」で維盛入水の項に「濱宮と申奉る王子の御前より、一葉の船に棹さして、萬里の蒼海に浮び給ふ」とあるのも、死を覚悟した平維盛が、同じ願いを抱いたからであろう。
 死出の旅に向かう船は「渡海船」と呼ばれた。小さな木造船には、家を象った外観を持つ小さな部屋が設えられた。乗るのは一人だけ。船には、櫓も櫂も帆もつけない。自分の意志のみで浄土に行けるものではないからだ。見送りの人たちに沖まで運んでもらったあとは、漂流するのみ。
 藤原宗忠の時代には、まだ渡海僧は多くなかったが、彼が南の海を見たとき、補陀落浄土を思い浮かべなかったとは思えない。
 翻って、現在の熊野古道ブームでここを訪れる若者達の表情は至って明るい。
 最後の渡海記録は享保7年(1722)。それからずいぶん時間が経った。
 現代の「渡海」は、ジェット機に乗って1日もかからない。あるいは、豪華客船で、ゆっくり時間をかけて。南の果てどころか、世界一周も思うがまま。私のように、クスノキ目当てに、わざわざやって来る者までいる。(海を越えたわけじゃないが)
 此岸の世界も捨てたものじゃない、とする考えに私も与するが、果たして精神世界の方は進歩したのやら、退歩したのやら。
 
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